社会の成り立ちについて
まず、社会とは何か?ということですが、「生活をする人々の集まり」のことを言います。
・・・わかりにくいですよね。
例えば、「地域社会」という言葉があります。
市町村など一定の区域で地域を区切るとひとつの「地域社会」ということができます。
「日本社会」というものも同じです。日本は島国で、言語も日本語で共通なので分かりやすいです。
日本という国がひとつの単位となり、社会を形作っています。
では、今の社会はどのようにしてできてきたのでしょうか。
戦後の日本社会では、「父は外に出て仕事をし、給料を持って家に帰る。母は家を守り、子育てをする。」といった家族像がありました。
戦後の日本社会は、こういった多数の「成人男子」によって作られ、経済的にも発展していきました。
もともとは、生物として子孫の繁栄、育児、子育ては主として女性が行い、そこで生物として役割を果たせない男性が家族の外で社会を形作ってきたというのが今の社会の原型です。
そのように考えると、「成人男性」優位になるように社会ができているのは当然ともいえます。
家に帰ると役に立たないのが男性だったので、男性は社会に出て働くしかなかったのです。
成人男性が自分たちの存在意義を持つために都合よく作り上げたのが今の社会の原型とも言えるでしょう。
社会における様々な課題
上記のようにしてできた社会が今の社会の原型だということを念頭に今の社会における様々な課題について見ていきたいと思います。
性差別
性の差別は、男女間の差別だけでなく、LGBTについても最近では言われるようになってきました。
具体的には、男性が働きやすい社会で、女性は働きにくい、といったものから、マイノリティに対する世間の目が厳しい、周囲が理解してくれない、といったものがあります。
これも、今の社会ができてきたプロセスを考えるとあって当然と言えます。
もちろん社会における差別がいいものではありませんが、「成人男性が都合よく作ってきた社会」が今の社会なので致し方ない部分はあります。
ただし、女性の社会進出がこれほどまでに進み、自己実現する女性やLGBTが増えてきている現状を考えると、社会は変わりつつあります。
またインターネットやスマホの普及で働き方が多様化され、社会の形も変わってきています。
性に差がある以上、真に平等な社会の実現は難しいかもしれませんが、ある程度不平等が是正されてくるはずではあります。
障がい
障がいについても基本的には「性差別」と同じです。
障がいのない人がマジョリティーで、障がいのない人がマイノリティーなので、障がいのある人が、社会で障害を感じるのです。
そもそも「障がいって何?」ということになります。
「障がい」は、社会生活をする上での「障がい」です。
「障がい」のある人自身は何ら問題なく、問題があるのは「社会」や「周囲」ということができるかもしれません。
「障がい」を作るのは「社会」であったり、「周囲」です。
そのように考えると問題があるのは、「障がい」のある人本人ではなく、障がいを感じさせる「社会」なのではないでしょうか?
マジョリティが作り上げた社会なので、マイノリティに対する配慮に欠けているのが今の社会とも言えます。
不登校
学校は、学校に来ない生徒を来させようと必死になります。
不登校にも色々とあります。
「行きたくても行けない」不登校と「行きたくない」不登校があります。
「行きたくても行けない」不登校は、本人の意思とは別に家庭環境などが影響している場合があります。
こういう場合は、学校が支援してあげるのは良いことかもしれません。
問題は「行きたくない」不登校です。
本人の意思が明白であるにも関わらず、学校に引っ張り出すような「太陽と北風」でいうと「北風」のような学校も多々見受けられます。
学校は子どもの「教育権」を主張しますが、嫌なことを無理強いするというのはその子自身を尊重しているとは言えません。
そもそも「不登校」の何が問題なのでしょうか?
十分な教育を受ける機会が保証できないというのであれば、別の方法で学習する機会を作ってあげれば良いだけのことです。
今はネットやスマホがこれだけ普及しているので、学習も学校へ行かずともできます。
学校での人間関係が不登校の原因になっているのであれば、その関係がリセットされた時(進学や就職など)、社会と接点を持つことは十分に可能な場合もあります。
今一度、その子自身にとって何が大事にされるべきかを考える必要があります。
現在の学校教育は、1人の教員が30人から40人ほどの子どもを見るということですが、子どもそれぞれに個性がある訳で、それを一度に同じ場で教授すること自体が異常なこととも言えるのではないでしょうか?
自分自身を振り返っても、そこまでして受けてきた教育で今自分に残っているものを考えるとほとんどありません。
むしろ周囲を見渡すと学校教育の弊害が出ているとも言える社会人がめちゃくちゃたくさん存在します。
結論としては、「不登校」は本人の意思による場合は、全くと言って良いほど問題ないということです。
「多数派に染まれ。」という多数派からの要求に屈する必要はありません。
ニート・ひきこもり
「ニート・ひきこもり」に関しても社会問題とマスコミが取り上げます。
これも基本的には「不登校」と同じで、「社会に出ていきたい」と思っていても「家の外に出れない」という場合は、何らかの支援があった方が良いですが、特に問題なく、好きで家にいる分には問題ありません。
外で嫌な思いをして、サラリーを稼がなければ、自分自身が生活できない、家族も養えない、という時代は終わりました。
家でできる仕事はたくさんあります。
家にいてできる社会貢献もたくさんあります。
嫌な思いをしてまで、リアルな地域社会と接点を持つ必要はないのです。
「ニート・ひきこもり」が問題というのも、多数派による情報操作かもしれません。
実際、新型コロナの第一波の際に、国民の多くが「ひきこもり」ました。
コロナの自粛により不自由を感じた反面、むしろ嫌な思いをして行っていた飲み会がなくなったり、過ごしやすい面もありました。
これからは「ニート・ひきこもり」の問題も、問題としてあまり意味をなさなくなってくるでしょう。
これまでの社会は多数派が作り上げてきた
上記では、今社会問題と言われているものを列挙しました。
結論としては、社会が問題なのか個人が問題なのかということで言えば、「社会の方が問題」と言うことができます。
そして、今社会は変わりつつあります。
新型コロナは、社会を変えるという意味においては、良いきっかけだったかもしれません。
これまでの多数派が作り上げた世界を、少数派である上記の人たちやその他オタクと言われる人たちなどが社会で活躍できるようになってきています。
彼らが活躍するプラットホームが整いつつあるのが今なのです。
YouTubeというプラットホームがそれを実現する一端を担っています。
これまでの既得権益を壊しつつあります。
在宅ワークもしてみればできるものですし、できてしまえば、会社に所属して仕事をする意味はあるのか疑問になってきます。
個人として、会社から業務を請負うことでも成立するものが多々あります。
昨今の社会の息苦しさも、社会変革のチャンスと捉えると前向きになれる面があるのではないでしょうか。
多数派による社会は終わりを迎えつつあります。
また、声の大きい人間が権力を持つ社会もこれからは意味をなしません。
変わりつつある社会に半分は期待をしながら生活すると、将来が明るいものに見えるのではないでしょうか。
おまけ
社会は多数派・・・という本記事の内容について、理解を深めるのに、「できそこないの男たち(福岡伸一)」が非常に参考になります。
男は生物学的には「できそこない」なんだそうです。
男は、生物として「できそこない」だから「家庭」という生物の基礎的なコミュニティーから逃げて、「家庭」の外側に「社会」を作っていったのだそうです。
「生物的なできそこない」が多数派として作ったのが「社会」だと理解するとマイノリティに何の問題があるのか、社会の方が問題なのではないか、というように思えてきます。
生物学というより大きな視点を知ることで、社会に対する見方も変わってきます。
おすすめの一冊です。